たきどぅん(竹富)の風に吹かれて
例えば春に桜が満開になると、生きている間にあと何度この景色を見られるだろうかと思う。
沖縄は八重山諸島にある竹富島に行ってきた。
竹富島は石垣島から船で15分、島を自転車でぐるっと一周出来るほどの小さな島だ。
島の集落は、サンゴの石垣で囲まれた赤瓦を漆喰で固めた屋根の家々。屋根にはシーサーが乗っている。
集落内に舗装された道路はほとんどなく、細かく砕けたサンゴの白い砂が幅2mほどの道に敷き詰められている。
訪れたのは8月なので当然暑い。日中の気温は32℃程だろうか。陽射しも強い。
しかし、民宿の部屋の窓を開けると時々吹く海を渡ってくる風が心地よい。
アスファルトが無いので照り返しも厳しくない。
古い家屋の雨はじと呼ばれる縁側は、ちょうど日陰になり強い陽射しから守ってくれる。
ここに座って時々吹く風を受ける。青い空には入道雲。
こんな子ども時代の夏休みのような経験はあと何度出来るのだろうか?と思う。
竹富島の次に訪れたのは小浜島。ずいぶん前の朝ドラ「ちゅらさん」の舞台になった島だ。
サトウキビの生産が盛んで、サトウキビ畑をまっすぐ貫くシュガーロードが観光スポットになっている。
この島で泊ったのは、有名人も訪れると言うリゾートホテルだ。
広大な敷地の中にコテージ風の客室があり、ロビー棟からはゴルフ場にあるようなカートに乗って移動する。
このホテルの部屋は庭とその向こうの海に面して大きな窓があるが、部屋にはエアコンがあるため基本的に窓は閉め切ったまま冷房していた。
たしかに暑い外気を部屋に入れるよりもこの方が「快適」である。
しかし、空調の効いた部屋では夏の生は感じない。ここまで来て何かもったいないような気がした。
竹富島では暑い中、肌を撫でる風が気持ち良かった。このリゾートホテルの空調された部屋は快適だ。
快適ではあるが、気持ち良くはない。「快適」と「気持ちいい」は違うのだ。
「快適」とはおそらく恒常な状態を指す。適度な条件が恒常的に続いている状態。
それに対して「気持ちいい」という感情は変化する感情の波の中にあり、条件付けられた時に感じるものだ。
心理学用語である条件付けとは、パヴロフの犬で有名なあれだ。
人間はいつも何かに条件付けられている。モチベーションというのがその最たるものだし、何かの食べ物やある行為に「ハマる」のはたいていの場合条件付けによるものだ。
条件付けは報酬刺激によって強化される。わかりやすく言うと、ご褒美をもらうとそれが好きになるというのと同じだ。
そして、心理学の古典的理論では報酬は常に与えられる(全強化)よりも時々与えられる(部分強化)方が効果があり、与えられるタイミングがわかっているよりもランダムに与えられる方が(変率部分強化)効果的であると言われている。
なるほど、ツンデレとはまさにこれだし、パチンコなどのギャンブルから抜け出せなくなるのもこのためである。
話がだいぶそれたが、竹富島の風はまさにこの変率部分強化であった。
気持ち良さとは常にあるものではなく、「あぢ〜」と言ってる時にふっと肌を撫でる風なのである。
こんなことを書くと、エコハウス信奉者の仲間から「お前は通風論者に寝返ったのか?」と言われそうだ。
注)通風論者:断熱気密を否定し、夏は通風によって過ごすべしと言う吉田兼好の徒然草の言葉を崇拝する住宅設計者のこと。
ここで以前、建築家の伊礼智さんに言われた言葉を思い出した。
伊礼さんは沖縄出身で、エコハウス大賞の審査員にもなっており、ある飲み会の席でお話しした。
それは、私がエコハウス大賞のシンポジウムで「(自邸のエコハウスでは)正直窓は空けない方が快適だ。」と発言したことに対して、あの発言は残念だったと言われたことである。
たしかに全館空調された高性能住宅(エコハウス)は「快適」だ。
現にこのブログを書いている現在、仙台市の外気温は36℃、家の中はいわゆる6畳用のエアコン(2.2Kw)1台で27℃をキープしている。
さすがに36℃は尋常ではないし、町ではアスファルトの上をやってくる高温多湿な風を家の中に呼び込んだところで気持ちいいわけがない。
夏の暑さを楽しみたいと言っても、体調を壊しては本末転倒だ。
しかし、暑さの楽しみ方、涼の取り方は人それぞれである。
ヒグラシの鳴き声を聴きながら少し涼しくなった夕刻の風を感じる、打ち水の匂いに涼を感じるなどの情緒、風情までも否定して病室の様な環境に引きこもるのは生き方としてもったいないと思うのだ。
使うエネルギーのことを考えても、いくら高性能住宅でも室内環境を機械的にコントロールしようとすれば、使用エネルギーはゼロではない。
一方、機械を使わなければ使用エネルギーはゼロ。どちらがエコかは明白だ。
ただ、夏冬ともにまったく機械に頼らずに室内環境を整えるのは現実的ではない。
(夏は無冷房、冬は薪ストーブと言う手もあるかもしれないが、今のご時世薪だって有限な資源であり、消費量は少ない方が良い。)
機械的にコントロールするなら躯体性能が良い方が使用するエネルギーが少ないというのは明らかである。
従来の断熱なんて何も考えていない住宅や、伝統的な自然素材で木の家だから涼しい的な思考停止住宅では、どんな機器を使おうともエネルギーをどぶに捨てているようなものだから。
一方、断熱性能の高いエコハウスはエネルギー消費が少ないからもう1年中窓を閉め切ってエアコンで制御しちゃいましょう、というのもどうかと思う。
今までなんとか工夫して機械に頼らず過ごしてきた人たちの多くがこのような考えでエコハウスに住むようになればエネルギー消費は増えてしまうからである。
メンタル的にもコントロールできない現象をアンダーコントロールなんて言ってしまう傲慢さにつながるような気もする。
地球環境的には手遅れの感がありつつ、人間にとっての生存環境が厳しくなるという相反する状況の中で一体どうすれば良いのか?
これに関して高性能エコハウスは矛盾してはいないと考える。
まずはギリギリまで機械に頼ら無くても良いような躯体性能を確保すれば、冬なら日射だけで過ごせるし、夏なら気持ちいい日陰を作り屋根壁からの輻射熱を感じない。
断熱性能が良いことによって内外温度差で風を作り出したり、熱帯夜の無い地域なら夜間の冷気を取り込むことによって機械による冷房期間を短くすることもできる。
我慢の限界を超えるような暑さ寒さの時は、設備による冷暖房は必要だろう。
そのような時でも高性能な断熱性を持っていれば、最小の設備、最小のエネルギー消費で冷暖房が可能である。
ノスタルジー的考えから伝統的だからエコ、古いからエコであるというのは、逆に昔の人たちに失礼である。
昔の人たちだって暑さ寒さを諦めていた訳では無い。
伝統技術である土壁や瓦屋根、茅葺きも自然環境を克服するための当時の先端技術だったはず。
特に都市部において人間の生活を取り巻く状況は変わった。
断熱技術は伝統を否定するものではなく、伝統技術をバージョンアップするものなのである。